富樫さん追悼(2)

富樫副会長の逝去に際し、みなさんから追悼の言葉をいただきました。

池田 正・帝京大医学部外科教授・日本乳癌学会理事長

ワット隆子さん 

富樫さんの件はまだお若いのに大変残念です。ワットさんも右腕をなくされ、さぞ残念かと思います。

昨年はお元気でステージに立たれていたのに、人生とははかないものです。最近私の周りでも同年代のものが亡くなっており、私も滅入り気味です。

渡辺 亨・浜松オンコロジーセンター・センター長

ワット隆子さん

ご連絡ありがとうございました。富樫さんの御逝去は何となく知りました。

7月1日には乳癌学会の会議でお目にかかった際、中村清吾先生も、お通夜に参列されたと伺いました。

富樫さんはしっかりしたやさしい方でしたね。はち切れそうなピンクTシャツ姿や、そのあと、お色直ししてドレスアップされた姿が目に浮かびます。

とても寂しい気持ちです。杏雲堂にお見えになった時に初めて昭和30年生まれで、同い年、ということを私は認識しました。

しっかりとワット会長を支えていらっしゃって、また、会員の方々からも慕われ愛されている姿を拝見していて、私より少し上かと思っていました。

2月に杏雲堂にお見えになった時には、ワットさんが母親のように付き添われていらっしゃいましたね。ワットさんもさぞかしお力落としの事と思います。彼女がこの世を去ったことはさびしいですが、神のもとに召されて、また、最初から研修しなおして、はち切れそうな元気で飛びまわっている姿が眼に浮かびます。

岩田広治・愛知県がんセンター中央病院・乳腺外科部長

ワットさんへ

ご無沙汰しています。お元気ですか。

富樫さんの件は、愛知支部長の金岡さんから、すぐにご連絡をいただきました。私も乳癌診療ガイドラインの作成などで、御一緒させていただいたり、あけぼの会の全国大会などでも、お話をさせていただいて、大変バイタリティーのある、まとめることの大変お上手な方であるなという印象を持っていました。本当に残念です。

でも金岡さんとも話をしていたのですが、悲しい出来事に違いはないのですが、あけぼの会として、活動が止まっているわけにはいかないのではないでしょうか。乳がんと診断されて、悩み苦しんでいる方が大勢います。

今後も、乳がん患者さんが、間違った方向を向かないように、海の灯台や羅針盤のように、明るい道標になるべく活動を継続させてください。私からのお願いです。

池田朝子・あけぼの会鹿児島支部長

ワット隆子会長へ       

富樫副会長さんの訃報に接し、心からお悔やみ申し上げます。

なかなか気持ちの整理がつかず今となってしまいました。私達体験者は身近にいる人が亡くなるのが何よりも一番つらいです。

いつも一緒に活動されてこられた会長さんはじめ事務局の皆様は尚一層、日が経つごとにいろいろな思いが募ってくる事でしょう。お察しいたします。

彼女は私達郷土『鹿児島』の誇りでした。

なんと、九州の端からご縁あって東京のあけぼの会の副会長をされ、皆様から慕われ、あのすばらしいひらめき・行動力・いつもパワーがあり、さすが薩摩おごじょだなぁと思っていました。鹿児島は会員の少ない支部ですが、いつお会いしても輝いた瞳で声をかけてもらいホッとするものがありました。

「あせらず、続ける事その先に見えるものは成功につながるのでがんばって」と話していた彼女の姿が目に浮かびます。

残された私たちは「乳がんで苦しむ人が一人でも少なくなるように・・」と活動していきますので天国から見守っていてくださいね・・・とメールを送りたいと思います。

ご冥福をお祈りいたします。

首藤昭彦・川崎市立井田病院・外科部長

ワットさん

富樫美佐子さんの追悼文を書くことは、痛恨の極みとしか言いようがない。一緒に「乳がんディクショナリー」の版を重ねてきたものとしてはまさしく戦友を失った絶望感がある。

富樫さんに限らず、ディクショナリーの編集に携わった人々をすでに失ってきた経験もある。あの小冊子は、まさに皆が命を削って作成したものである。

五木寛之のエッセー「大河の一滴」を読めば、もともと人生はむちゃくちゃで不条理なもので、それがあたりまえで、人生を生きるということはそういうことなのだ、ということが書かれている。今年になって、まさに不条理、といいたいことがたくさんありすぎる。

大震災の少し前には、ニュージーランドの震災で多くの日本人が犠牲となった。ニュースの詳細を読めば、退職後に一念発起して英語を勉強し直そうとした教職のかたや、看護の職を得てなお英語圏に自身の活動を広めようといった看護師など、ものすごい大きな志を持った人々だけが、たまたま地震の時にボロビルに集中して居たが為にピンポイントに命を奪われてしまっている。幕末の志士に匹敵するような大きな志を持った人々だけが、なぜ不条理に死ななくてはならないのか、私には分からない。

そして先の大震災。もともと医師不足で医療崩壊の最前線部である東北地方が、これまた選択的に大震災・大津波による大打撃を受け、医療崩壊に拍車がかかっている。

我々の生活も震災以来、何かが変わってしまった。通勤電車は日中は車内のあかりが無く、薄暗い。単行本は日の光がうまく入ってきたときだけ良く読める。街中も、人通りは回復しても以前とは何かが違う。物理的にも精神的にも何かが大きく失われたと思うのは自分だけだろうか。

そこに富樫さんの訃報である。がんの再発が確実となってから、富樫さんとは何度か直接また電話でお話した。

多くの患者さんの臨床に携わった経験からは、これから先に富樫さんに降りかかるであろう病状が透けてみえて、正直つらかった。

思い出すのは、あけぼの会の事務所でワット会長、富樫さんとディクショナリーの草案を書きながら一緒に食べた鰻重の美味しさや、札幌の学会のランチョン・セミナーでご自身の経験やあけぼの会の紹介をされていた、ちょっと小太りでユーモラスな姿である。

その際、あけぼの会本部の前の満開の桜並木の写真が出て、「来年もこの桜がみられるのかしら」とため息のように言われた一言が耳に残っている。

残されたものは、おそらくは被災者の方々と同様、とにかくどんなにつらくとも歯を食いしばって前を向いて進んでいかなければならないのだろう。つらくとも、それが使命なのかなとも思う。

さようなら、富樫さん。そしてありがとう。



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